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橋本努講義「経済思想」小レポート2004 no.3.

毎回講義の最後に提出を求めている小レポートの紹介です。

 

 

 

17020089 経営学科3年 三浦麻衣子413

大学という名の揺りかごの中で

 413日の講義において配布された資料の中に、非常に目を引く一文があった。ある私立大学の入学案内パンフレットから引用されたという一節の、最後の一文である。そこでは大学を『やさしく迎えてくれるキャンパス』という名で紹介していた。キャンパスが、まるで『故郷』や『家』のように扱われているのだ。

 しかし、こういった表現はここ最近、顕著に見られるようになっていると思う。文章として表されていなくとも、大学をそういうものだと認識する風潮は、年々高まってきてはいないだろうか。大学=学問をする場所、では無く、大学=社会を知る前段階、と考えている者は、今現在大学に籍を置く学生達の中にも確実に存在していると言えるだろう。現に私も、そのような考えで入学してきた。将来何をしたいのか、そんなことは今の段階では分からない。けれども、大学に入って後に様々な経験をすれば、それが見つかるのではないか。大学には、将来を探すために入るのだ。恥ずかしながら、高校三年生の受験期に私が考えていたことは上記の通りである。学問をしたいと純粋に意欲に燃えて入学はしていなかった。むしろ、学問よりもその他のこと、例えばバイトや一人暮らしといった、今までしたことの無い活動それ自体に興味があったのだ。

 それから丸2年が経った今、私の中に将来の明確なビジョンが出来たかと問われれば首を振るしかない。結局は大学という場所に幻想を抱いていたのだろう。入学すれば何かが変わる。何かが見つかる。少し考えれば、そんなことは無いということが分かるであろう事を信じて入学し、そして気付けば学生生活も半分を過ぎていた。

 しかし、私の中に未だ焦りは生じない。焦りが生じないことに焦ることはあっても、将来が決まらないことを嘆いたり悲しんだりしてはいない。その理由は、上記の一文の中に表されている。大学が温かい揺りかごのように、私を包みこんでくれているのだ。

 揺りかごの中で、赤ん坊はただ温かみを受けまどろんでいれば良い。が、年齢を重ね、揺りかごを離れなければならなくなるその時に初めて、周囲を見るようになる。今の大学とはまさしくそのようなものではないだろうか。学生を包み込み、少しだけ自主性を求めながらも、両親の庇護と大学生という庇護の下に置いて、現実から目を逸らさせてはいなだろうか。そうして、対象となる学生も、そのような現実を知っていながら、温かさに身を任せてはいなだろうか。

 揺りかごは気持ちがよく、離れがたいものではある。が、いつかは離れなければならないものでもある。しかし、就職活動に忙しくしている先輩を見るにつけ、安穏としている今を手放したくないと思ってしまう私がいるのだ。

 

 

416日経済思想 経済学部経営学科3年 17020089 三浦麻衣子

不平等こそがバネとなる

 前回の講義では、ローマーの教育是正措置案が取り上げられた。アメリカは貧富の差や教育の差が非常に問題となっている国であるが故に、このような考えが登場したのであろう。事実、非常に理にかなっている考えだと思う。

 がしかし、果たして教育是正は本当に必要なのであろうか。本当に教育是正を行うことが、全ての者に等しい機会を与え、より素晴らしい社会の礎となるのであろうか。私は、そうは思えないのだ。

 私個人の経験から述べると、確かに両親から与えられる環境というものは、幼い時は特に子供に影響を与えると思う。私の両親は共に高校が最終学歴であり、文化人の家庭と言うよりはごくごく一般的な家庭であった。周囲に学問に携わる人間がいない環境だった。そのような中で育ったからか、今でも論文を読む時には、何か気合のようなものを入れてからでなくては読むことが出来ない。本を読むことは幼い時から好きだったのだが、ジャンルはミステリイやSFに偏っており、論文等は恥ずかしい話だが大学に入って初めて読む機会に恵まれた。もし両親が読書を嗜み、更にそのジャンルも学問としての知識を深めるものであったならば、私も幼い時から触れていたであろう。

 しかし、両親の影響というものはあくまで幼い時の話である。成長し、自分で自分の環境を広げるようになってからは、両親というよりもむしろ自分の気持ちの方が大きな影響となっていったように思うの。また、自分のいる環境に無いからこそ興味を持ち、それを求めようとする欲求も高まった。学問に縁の無い家庭に育ったからこそ、大学に興味を持ったのだ。

 家庭環境の違いによる教育環境の違いは、確かに厳然として存在することである。それは自分自身が経験した事実に基づいて言えるからであり、だからこそ私はこう述べたい。家庭から与えられる環境だけで、子供の教育水準は変化しない。むしろ、子供の考え方一つ、気持ちの持ち方一つで簡単に変化するものなのだと。

 更に述べるならば、この教育格差是正措置の基準として挙げられた不平等は、逆にその子供の『バネ』となることが出来うるということだ。人は逆境の時こそ、真価を発揮するものである。学問の環境として恵まれていないことをバネとし、高みを目指す源となるのではないだろうか。

 そうは言っても、子供一人の気持ちだけではどうにもならないことがある。お金の問題が特にそうであろう。このような場合にこそ、政府の力が必要になるのではないか。学習環境を平等に整え、学習の機会を平等に与え、そして奨学金等の整備をすることで金銭面の問題で学問を断念することのないように尽力する。入学試験制度を変革するのではなく、もっと初期の段階である義務教育における整備、そして義務教育から子供自身が教育を選択する家庭における整備を行うことが何よりも大切なことなのではないか。

 不平等はある意味での、奮起剤となる。むしろ、家庭における教育環境の違いを問題にし、それ故に子供に不平等が生じているのだと嘆く社会こそ、不平等と不幸に満ち溢れている社会と言えるのではないだろうか。私は、そう思うのだ。

 

 

6317020089 三浦麻衣子

自己を中心としてとらえる自由の狭量さ

 自由を望まない人間などいないと私は考える。人は、束縛された日常よりも、自由裁量に任された日々を送ることの方が、良い人生だと思うのではないだろうか。しかし、ここで注目すべき点は、人が自由をどのようにとらえているかである。思うに現在の私達は、自由とは「本人が何物にもとらわれていないもの」であると考えてはいないだろうか。言うなれば、私達は自己を中心とした物の見方で世界を捉え、そうして自分が自由だと感じている。広辞苑を引いても、自由は「責任をもって何かをすることに障害が無いこと」であると述べられている。あくまでも主体に束縛が無いことが現在の一般的な自由なのだ。

これに対してハンナ・アレントが提唱する自由は少々異なる。“生活の必要あるいは他人に従属しない”という、先の自由の定義とほぼ同じことを述べている部分は勿論あるが、それだけではなく、彼はもう一つ“自分を命令する立場に置かない”ということもあげている。これは私にとって、非常に面白く感心させられる定義づけであった。それどころか、初めてこの定義を知った時は、後者の部分が自由という定義に果たして含まれるのかと疑問に思いさえした。それは、私が自由を考える際に、自分自身を中心としてだけとらえ、外部環境を一切考えていなかったからであろう。冒頭の部分で触れたように、自分が束縛されていないことだけが自由だと考えていたのである。その考えからいけば、自分が命令する立場にいようとなかろうと、自身の自由が損害されることは無く、自由であるか否かを判断する要素としては無関係として見ることができるのだ。

 しかし少々考えれば、アレントが提唱している定義は非常に理に適ったものであり、また自由を創り出すために必要なことであることが分かる。自由とは命令をされないことである。命令をする者がいなくなれば、勿論命令をされる者もいなくなり、そして自由を手に入れる者が現れる。この一連の流れは、最初が停滞すると途端に流れなくなり、逆に始まりの絶対数が多くなればなるほど、結末の自由人の数も多くなる。自分が自由であるだけではなく、自分以外の誰かをも自由にする為に、又今は自由を手に入れてはいなくとも、回りまわって自身に自由の恩恵があるように、人々は命令をしてはいけないのだ。

 ここで気付くことは、アレントの考えは自分一人だけの自由を考えているのではなく、世界全体の自由を考えているということだ。万人が自由であることを目指した定義づけであるとも言えるだろう。自分だけが自由になるのではなく、自身が命令をしないことで他者にも自由を与えることが出来るというアレントの自由は、連鎖反応的に広がっていき、やがては同じ世界に住む人々全てが自由となることが出来るだろう。そう考えるならば、アレントの自由は非常に素晴らしいものである。

 では、なぜ最近の自由の定義からアレントの考える自由の部分が抜け落ちてしまっているのか。私はひとえに人々が自分本位に物事をとらえるようになってしまったからだろうと考える。アレントは、視野を内だけではなく外にも向け、そして自由を万人が享受できるように考えていた。私達には、その部分が足りなくなってきているのではないだろうか。これは今回の自由だけではなく、幸福という概念にも当てはめることが出来るだろう。自分自身だけが幸福になることが幸福なのか、それとも万人が皆幸福になることが幸福なのか。理想を語るならば、万人が皆幸福であることが望まれる。しかし現実に、私達はそうなるように行動しているであろうか。むしろ、目先の幸福だけを望み、そのようなことは考えてもいないように思う。アレントの自由を知り、私の考えていた自由の狭量さに愕然とすると同時に、より視野を広げ、そして自分以外の人々のことをも考える必要性を感じた。

 

 

マルクス「経済学・哲学草稿」について

17020107  川岸 祐美

今は違うが、大学で経済学を学び始めたころの私は共産主義が実現するとよいと考えていたことがあったので、今回の講義を聴いて、やはり共産主義もよいのではないか。と思った。そのように思った点を具体的に述べようと思う。

マルクスは、アダム・スミスに対して「主体としての、人格としての私有財産は、労働である。」や、「私有財産が人間そのものと合体され、人間そのものが私有財産の本質と認められることによって、人間の外にあって人間から独立した・・・富は止揚される、すなはち、この富の外在的な没思想的な対象性は止揚されるのである。」という評価をし、私有財産の止揚という考え方に基づいて共産主義の三つの形態を述べている。第一形態の粗野な共産主義について聴いたときに、こんなことをする必要はないのではないかと考えた。しかし、人格性の否定である私有財産の徹底した表現ということを実現するとは、こういうことなのであるのか。と、実感することも出来たように思う。続く第三形態で、「人間と自然の間の、また人間と人間のあいだの抗争の真実の解決であり、」や、「私有財産の積極的止揚は、人間的生活の獲得として、あらゆる疎外の積極的止揚であり、したがって人間が宗教、家族、国家などからその人間的な、すなわち社会的な現存へと還帰することである。」「心配の多い窮乏した人間は、どんなにすばらしい演劇にたいしてもまったく感受性をもたない。」という部分に書かれていることを読むと、共産主義はよい効果を持っていると思った。加えて、「もっとも近い将来の必然的形態であり、エネルギッシュな原理である。」という部分を読むと、管理下におかれた計画経済という共産主義のイメージが大きく変わったように思う。また、人間と人間のあいだの抗争の解決が実現されるならば、戦争の絶えない現在の社会よりも理想的だと思う。しかし、宗教が原因でおこる戦争などを考えると、本当に抗争を阻止しきれないのではないか。という疑問もある。

「理論的な諸対立の解決でさえも、ただ実践的な仕方でのみ、人間の実践的なエネルギーによってのみ可能であり、だから、その解決は決してたんに認識の課題であるのではなく、現実的な、生活の課題であること、しかも哲学はそれを解決できなかったということも、明らかである」とあるように、共産主義が実現することへの問題は、考えて解決できないことではないかと思う。前回の授業と比べて、今回の授業で私有財産の捉え方など秩序だって共産主義の考え方を深く学んだことで、共産主義を支持したいという気持ちが高まったが、前回よりも現実味が薄れたようにも感じられるのも事実である。世界を完全に止揚させることは不可能であるし、不完全に共産主義を実現させてしまえば、共産主義の第一形態のような社会になる恐れもある。故意に実現させるのではなく、共産主義が近い将来に必然的形態として実現し、次の歴史的発展の契機になってほしいと思う。

 

 

共産主義社会での教育について

17020107   川岸 祐美

 今回の授業を受けて、共産主義と、社会民主主義の相違点を明確に理解することができた。加えて、マルクスが思想家ではなく、革命家である。ということを聞いて、両者の相違点の理由を実感することができた。

ゴーダは、「国家の精神的、道徳的基礎として次のことを要求する。1.国家による普通平等の国民教育。一般的就学義務。無料教育。」と教育問題について意見を述べているのに対し、マルクスは、「教育がすべての階級にとって平等でありうるとでも信じているのであろうか。それとも、家計状態からみるかぎり賃労働者だけでなく農民にとっても負担できる唯一の普通教育―つまり小学校の教育―の水準に、それより上層の諸階級の教育も強制的に引き下げなければならない、と要求するのか。/・・・・・・合衆国のうち、二、三の州では『より上級の』教育施設も『無料』になっているが、それは事実上、より上層の諸階級がじぶんたちの教育費を一般の税金から支弁することを意味するに過ぎない。・・・・・・/学校に関するパラグラフでは、少なくとも小学校と結びついた工業高校(理論的および実際的な)を要求すべきであった。」と述べている。議会主義に立って目指す社会を実現しようとする社会民主主義に対し、革命によって目指す社会を実現しようとする共産主義とでは、教育に求めるものが違うと思われる。具体的には、精神的、道徳的な基礎を構築するために教育を行うと考えるか、職業訓練に主眼におき、「『働き手』の階級を雇う主人の階級がなくてもやっていけるということ」を目指して教育を行うか。という相違である。資本家や地主に対しても理解を促すために、教育を解して自らの主張を伝えようとするのではなく革命という武力で自らの主張を伝える。ということは、階級を超えて、共産主義者を増やすのか、それとも、マルクスに共鳴する革命家を増やすか、という異なる結果を生み出すことになると思う。マルクスは、革命によって支配階級を倒すことで、現実を止揚させようとしているのであり、思想の力によってではないという点で、社会民主主義とは意見を異にしていると思う。これまでの講義の中で、マルクスの共産主義を実現させるためには、現実を止揚させなければならないということの困難さを常に感じていた私は、革命という方法で社会主義を実現させるよりも、議会主義を通して、社会を実現する方が確実であると思う。教育を通して実現すれば、共産主義の第一形態も回避できるのではないかとも思うのだ。

 私は、授業を受けるにつれて共産主義実現に対して、今までの批判的な立場から、肯定的な立場へと変更しつつある。そのため、社会民主主義を支持し、より確実な方法を通して、近い将来に社会主義が実現して欲しいという思いを強くしている。これを契機に職業の選好に偏りが出た場合の対処法などを、社会民主主義の下で、どのように解決したらよいかということを考えていきたいと思った。

 

 

環境思想について

17020107 川岸 祐美

 「二酸化炭素の排出権を市場で取引する」というシステムをとるアメリカのように、環境問題にたいする取り組みを、もっと市場化するべきであると考えている私にとって、今回の授業の内容は、環境問題を取り組む上での、新たな可能性を発見させてくれるものであった。昔の清貧な生活を取り戻す。ということが出来るのならば、確かに環境問題は解決すると思う。実際、水俣展に行った私は、被害者側の団体の団長が、「戦前の生活を思い出してみなさい。あんなに貧しい生活でも生きることができた。公害病を発生させるような事態を招くより、よっぽど良かった。」と涙ながらに訴えVTRを見た。リサイクル工場に見学に行った時も、一度ペットボトルを開発してしまったからには、ごみであることに変わりはないのだ。と感じたのは否めない。贅沢を知るからそれから離れられなくなっていく。そして、便利さを追求して新たな物質を作っていく。やはり、貧しい生活を送ることを肯定し、そして、環境を配慮した生活を送るべきであると、私は感じた。

 しかし、そのことだけでは、いけないとも思うのだ。将来のことを考えたときに、これから貧しい生活を送ることを実行していくことは、大変有効であると思うのだが、現存の環境問題が、それだけで、解決するのかどうか、不安なのである。更に前回までの講義で勉強した、消費社会のコードのことも考慮すべきであると思う。今後も、やはりこのまま、強制浪費社会の状態を維持する傾向が続くと思うし、簡単に抑制できないのではないかとも思うのである。そのことを考えると、貧しい生活を送ることと、強制浪費社会の下に動いている経済の抑制を一緒に行うことは、不可能なのではないか。と思う。

 しかし、不可能に見えるこれらのことを実現出来る、唯一の方法があることを知った。ディープ・エコロジーの思想のことである。この中で謳われている、「人間は環境の中に個々独立して存在するのではなく、生命圏という本質的な関係性の中で生きている。」と考え、「生命圏平等主義」の立場で、世界の人口密度や、生息密度について考察し、エコロジカルな自己の実現を達成することが出来たならば、前述の問題は解決されていくと思う。貧乏な生活というよりは質素な生活を送り、企業の側も、経営環境の中に、生命圏という本質的な関係や消費者の質素なライフスタイルも考慮に入れて、それに見合った経営を行うようにすれば良いのだと思う。現状の環境問題を解決するために、排出権取引のような市場を導入していくことがよいのではないか。ということを考えていた私は、今回の講義から、そうではなくて、個々の人間の考え方自体を変えていくことが本当の意味での環境問題の解決につながるのだ。ということを痛感した。ゼミの勉強を通して、環境問題への取り組みを考えているが、この考え方を積極的に取り入れたい。

 

 

神議論が包括する問題点への対処法

経営学科3年  学生番号:17020029   銅道秀和

何か漠然としたものに対して、頑張ることでいつの日か神に救われるのではないかという神義論が、宗教には存在する。死に意味を与えないという思想の結果として起こる、“生への無意味化”を防いでいるのだが、苦難の不平等な配分をいかに克服するかという問題が残る。苦難が克服されなければ、恨み、妬み、嫉みが蓄積し、その結果社会において負の感情同士が暴発し、社会が崩壊する恐れが出てくる(そのため宗教的には、最も苦難を乗り越えた者を高貴な存在と定めている)。その課題への対処法として、生活の合理化(宗教は日常生活の合理化を可能にするものとされる)と現世拒否の二種が存在する。

 生活の合理化については、現世に対する合理的な意味づけを理解する必要がある。これは芸術的体験や恋愛体験などに身をゆだねることを拒否するというものであって、この態度を通じ、倫理的にであろうと、純粋に知的であろうと、合理的な仕事へのエネルギーを流入させる力の高揚が可能になるのである。一般に、体系的・一義的に不変の救済目標を指向するようなあらゆる種類の実践的倫理は、一部は同じく形式的方法性という意味で、また一部は規範的に妥当するものと経験的に与えられたものとを区別するという意味で、「合理的」だったのである。だがこの「合理性」については、宗教上のものと経済的なものとの間に、ある種の緊張関係が生じてしまうという点もある。禁欲が拒否する富を禁欲自身が作り出すというパラドックス(簡単な例を挙げれば、禁欲をして仕事に励んだ結果、富がどんどん貯まってゆくが、禁欲ゆえに富を使用する機会を逸し、結果として富の蓄積が進むというもの)が、いつの時代も発生していたのである。

 現世拒否については、行動的禁欲(神の道具として聖意にかなうように行為するということ)と、神秘論における瞑想的な救済の所有(行うことではなく、待っているということ)の二類型がある。ここでも合理性が説かれ(ここでの合理性は通常とは意味合いが多少異なり、「組織化」という意味に近いものである)、苦難からの解放として、「救いの宗教は、生活様式全体の合理的組織化を行う」という意味合いにおいて、救いと合理性の両者の関係が定義されている。

まとめとして、現世拒否への見解を、老子を使って表現すると、「神秘家の典型的な態度は、独自の心砕かれた謙虚さであり、行為の極小化、一種の宗教的な現世無名化であって、現世に対立し、また現世における自分の行為に対立しつつ、そうしたかたちで自己の救いの確証を得ようとする。現世内的禁欲者にとっては、これとは反対に、行為を通じて自己の救いの確証を得ようとする。現世内的禁欲者にとっては、神秘家の態度は怠惰な自己満足であり、神秘家にとっては禁欲者の態度は、義認を受けているという自分だけのむなしい考えを抱きつつ、神と関わりのない現世の営みにのなかに巻き込まれている」のである。

以上が、死の無意味化という思想の結果発生する“生の無意味化”という思想を避け、国家が擬似宗教として現れる際に生じる神議論の問題に対する対処法である。

 

 

貧乏における価値観の相違

経営学科3年 学生番号:17020029 銅道秀和

『環境思想』において人間中心主義と生態中心主義というものがある。前者は、社会目標の感情的な評価よりも、合理的かつ客観的な評価を支持し、最小限の努力で最大限の物的生産を目指す。自然の過程を理解しかつ支配し、そこに感嘆、畏敬の念、あるいは道徳的義務感など持たない。これに対し後者は、経済的進歩の追求に対して制約を課すことを厭わず、無政府状態(人間が介在する以前の均整の取れた自然状態)を奨励し、人間の欲求よりも、むしろ自然と生態の限界に基礎をおいた道徳的行動の規範を積極的に支持するというものである。

環境思想家であるヘンリー・ソローは自説の中で、労働者と学生の関係を、「真の独立ための閑暇を持たない」労働者と、「人間にとっていかなる必要ないかなる労働をも全面的に避けることによって、欲しくてたまらない閑暇と静けさとを勝ち得た」学生とに分けた。それによって学生は、「労働のみが閑暇を有効なものにすることができる経験を自分自身から欺き奪うのであって、不名誉な無益な閑暇を手に入れるに過ぎない」としている。学生の身分である私にとっては何とも嫌な言われ方である。私としては別に労働から全面的に逃げたつもりはないし、自らの閑暇が不名誉なものだとも思わない。意義のある閑暇を過ごし、自身の審美眼を育ててきたと思っている(そりゃ無益な時間も数多く過ごしては来たが)。また彼は、自然を観察することがいかに素晴らしいかということを説いている。各人が夢を持ち、貧しい中でいかにして輝かしく生きるか(「自分は生きた」という証を求めて)という思想の下、質素と勤勉を(自然との関わりの中で)実行することで理想の生き方を見出したようだ。だが「大部分の贅沢」が「人類の向上にとって積極的な妨害物」と言い切ってしまうのはどうだろうか。確かに自然の中で質素な生活を行い、自らを高めていく生き方も素晴らしいとは思う。だがそれはある意味社会からの逃亡であり、‘社会’という“環境”に積極的に貢献しているとは言えないのではないだろうか。

 次に、このような生き方を理想視している川上卓也の『貧乏真髄』について見ていきたい。ここでは、消費されない自己とは消費しない自分でもあるという見解の下で、「消費社会に自分を消費させないという、もう一歩踏み込んだ強い意志」の必要性が説かれている。また、“貧乏くさくない貧乏”というのが書かれていて、消費により個性を作ろうとする者が貧乏くさいとして、「財力は乏しくとも、それを補うだけの自由な時間、自由な心、考える力、創造する力」を持つ‘貧乏’を、自らを高めるに適しているとしている(「自分の持てるすべての力を定められた方向へ集束させるための術」として貧乏を描いているのである)。だがこれも、金を稼ぐための労働から逃げ、社会から逃避しているように見える。社会全体における経済面から考えても、奨励すべき生活ではないように思える。また消費は何だかんだいって絶対不可欠であるし、消費で個性を出していくのが消費社会に消費されているとも、ましてその行動が貧乏くさいとも思わない。

 以上のように、貧乏における価値観が相容れるものが少なく、私はこれら貧乏の利点を説く理論について積極的に納得することはできないのである。だが私はあくまで現代的に見ての見解を述べているのであって、自然と調和した質素な生活に憧れる面もあることを付け加えておきたい。

 

 

宗教のもたらす合理性の疑問

経済学科4年 17990084永良 仁賢

 今回は、宗教と合理性についての疑問を考えてみたい。まず宗教改革について、簡単に概要を述べてみよう。当時のローマ教皇は、フィレンツェのメディチ家出身のレオ10世。彼は、サン=ピエトロ大聖堂の改修工事にかかる費用集めのために、免罪符というものを販売した。これはお守りのようなもので、これを購入することによって、罪が許されるというものであった。これらのことに疑問を感じたルターが95ヶ条の論題という質問状を、ローマ教会に突きつけたことから宗教改革は始まった。この論題の中核をなしている主張は、およそ次の3つである。第1に、免罪符で罪が許されるわけがないということ。第2に、人は信仰によってのみ救われるということ。そのために、教皇が神との仲介役を引き受ける必要はまったくない(これを信仰義認説という)。では、信仰とはどういうことか。これまでは、教皇や教会の言う通りにするのが信仰であった。それを批判して、第3に信仰とは聖書に従うことであると述べている。

 そもそも宗教と、経済というのはまったく相反するもののように感じる。なぜなら、経済的に合理的に生きるというのは、無駄を省き儲けるように(損をしないよう)すること。しかし、宗教家というものは、質素倹約というものは当てはまっても、儲けるように行動するということに関しては、まったく縁のないはずである。なぜなら、現代でも古来から存在する宗教の経典には金儲けの方法など記してないからだ。むしろ実行すれば損をするようなことは大いにあるだろう。一応断っておくが、新興宗教は別である。ということは少なくとも昔は宗教によって経済的に合理的に生きるというのは不可能であったろう。確かに、誰もが宗教家のように質素につつましく生活すれば、社会的な備蓄は増えるだろうが、結局誰も使わないということはありえないので、誰かしら浪費するものが出てくるだろう。もしそんな人物がいなければ、その社会はもはや資本主義としての性格は持ち得ない。ところで宗教のもっている性格として、大きく分けて2つに分類できるものがある。それは、信仰によっていつ救われるのかということである。1つは、自分が死んでからで、これはあの世の存在を規定し、そこで救われるとする。大半はこちらであろう。そしてもう1つは、現在の救済を求めるものである。前者は死後の救済を獲得するために、生きているうちは苦労を強いるような教えが多い。そして後者は現在の苦境を打開するための教えを記しているのだろう。とすると少なくとも後者の場合は、経済的合理性と、宗教の説いている合理性が合致することもありえなくはない。だが、古来から存在するメジャーな宗教の場合はほとんどが前者であると思われるので、やはり整合性を持ちえるとは考えにくい。そこが1番の疑問である。

 最後に蛇足ではあるが、先ほどの新興宗教について書いてみたい。現在世の中には多くの宗教が存在する。それらは、その起源を古来に宗教に求めるものから、まったく新しい考えに基づくものまで様々である。それらの中で、戸別訪問を行って勧誘活動をしている者がいるが、私はそれがどうしても納得できない。確かに、自分たちが信じているものが素晴らしいものであれば、それを他人にも教えたいというのは、人間のもつ優しさか、はたまた自己中心的な押し付けのせいか。なんにせよそういう気持ちは理解できるだろう。しかし、その手段が問題である。より多くの人々にその存在をしらしめたいのであれば、公園や駅前で演説活動でもやったほうが、よっぽど効率的なはずである。それをあえて非効率的な方法をとっているというのは、やはりそれなりの理由でもあるのだろうか。私も何度か経験があるが、とりあえずそういった者達が自宅に勧誘にきた場合に必ず思うことは、うっとうしいの一言である。

 

 

経済学科4年 17000089 福岡 卓弥

ボードリヤール 『消費社会の神話と構造』

 消費はもはやモノの機能的な使用や所有ではないという。モノがひとたび商品となると、モノはたんなるモノではなくて、なんらかの価値の備わったモノとなる。さらに消費社会におけるモノは、単に価値あるモノにとどまらず、なんらかの社会的意味をもつ「記号」になっている。つまり、自然世界におけるモノ=物質、経済世界におけるモノ=物質+使用価値、消費社会におけるモノ=物質+使用価値+社会的意味=記号、という感じだろう。たとえば、自動車そのものは技術によって加工された物質であるが、それが市場にでると、一定の貨幣と交換できる商品となる。それは座ったまま何十キロも高速で移動できるという機能をもったモノである。高速移動という機能は、自動車の「使用価値」である。しかし、多くの人はただ高速移動するだけで車を買うのではない。まだまだ走れる車でも、モデルチェンジがあったり、トレンドが変わったりすると、車検の切り替えなどを機会に多くの人が車を中古にだして新車に乗り換える。たとえばBMWがステイタスを表したり、RV車が人気を集めたりしている。この場合の新車は明らかに本来の使用価値を超えた何かである。この超えている要素が社会的な意味づけにほかならない。勲章や金メダルが何の使用価値もないのに、人々が必死に追い求め賞賛するのは、その物質にポジティブな社会的意味が付与されているためというのと同じ構造であろう。消費社会の大きな特徴は、それが特殊な商品だけでなく、こうした社会的意味が備わっているということだ。このような意味で、現代の消費は、単にモノの使用価値を自分のものにすることにとどまらず、記号消費という性格の強いものになっている。高価なモノや役にたたないモノの消費、つまり浪費が、社会的なステイタスを高める。以前ヴェブレンの『有閑階級の理論』で触れた、誇示的消費という有閑階級特有の消費の仕方、すなわち豪華な家を建てることや高級な趣味などが有閑階級の客観的証明の機能を果たすのと同じである。ところが、現代の消費はこうした誇示的消費という要素はあるけれども、特定の階級に限定されるのではなく、社会全体のあり方に深く関わっていて、むしろ無意識なレベルで、しかも構造的であるところに特徴があるという。もっと自分らしい、もっと個性的なモノを求めるように、理想的な自己の集団への帰属を示すために、あるいはより高い地位の集団をめざして自己の集団から抜け出すために、人々は自分を他者と区別する記号として差異の消費を行っている。最新の情報をキャッチして、シーズンごとにファッションをとりかえたり、車検のたびに新車に乗り換えたりすることは、消費社会の人々の義務となっている気がする。人々は、ファッションはもちろん、インテリアなどをコミュニケーションとして消費を操作することによって、人々はアイデンティティの調整を行っているのではないだろうか。現代では消費がアイデンティティ形成のひとつの形となっているような気がする。

 

 

世界のシミュレーション

経済学部経済学科3年 17020096  渡邉 剛

 講義の中心となった話題からは若干逸れるが、今回配布されたシミュレーション結果が掲載されたプリントに興味は非常に興味深かった。同様のシミュレーション結果をかつて読んだことがあるが、条件が細かく設定されているものではなかったからである。また、物質的生活水準に関するデータは今回初めて見たものである。

 世界人口はまもなく減少に転じる、という話は良く聞く。特に大きな政策変更が行われないスタンダード・ランによるシミュレーションでは、21世紀前半で人口増加はピークを迎える。このスタンダード・ランによれば、22世紀には工業生産・食糧・資源などが20世紀初頭と同等の水準まで下がることがわかる。物質的生活水準も大幅に低下しており、現在の日本の状況を考えると想像し難い結果である。現在世界中で行われている資源の浪費が全ての引き金となるわけだが、このことが近い将来の人類の平均期待寿命低下と死亡率上昇をもたらすということは、あまり実感が湧かないというのが正直なところである。

 これに対し、1995年に人口抑制策の実施と工業生産目標の採択を行うと、21世紀前半50年間の物質的生活水準は非常に高くなる。しかし、その分環境汚染が増加し続けるため、22世紀が近くなると全体的に減少傾向になってしまう。

 非常に興味深いのが、人口・工業生産の安定化、汚染排出・土地浸食・資源利用削減に関する技術を、1995年と2015年にそれぞれ取り入れた場合の比較である。1995年に導入したシミュレーション結果は、現在より高い水準で全てが推移するという意味で正に理想である。資源減少は穏やかであるし、汚染も21世紀前半には減少に転じる。しかし、全く同様の施策を2015年に行うと、僅か20年の差であるにもかかわらず、結果は全く違うものになってしまう。この20年間の間に、人口・工業生産・汚染が増加し過ぎるため、効果的な技術を投入したとしても手遅れなのである。22世紀までにはなんとか持ちなおすが、21世紀中は特に生活水準面での低下が著しい。

今は既に2004年で、シミュレーション上世界の継続的発展のタイムリミットであった1995年から9年も経ってしまった。このシミュレーションは恐らく90年代前半に研究されたもので、現在同様のシミュレーションを行えば多少結果は異なるだろう。しかし、このようなシミュレーション結果がありながら、我々人類が対応をしてきたかというと非常に疑問に感じる。ここ数年、人々の環境に対する意識は高まってきたと思う。しかし、それはあくまで先進国での話である。飽食である先進国とは異なり、発展途上国では食糧不足が深刻であり、生産向上のためには環境問題は二の次である。某石油会社の広告を引用すれば「我々が彼らの焼き畑農業を止めさせることはできない」のである。もっとも、先進国であっても、自国の経済発展を優先しようとする政策をとっている国は少なくない。京都議定書も非常に中途半端な形に終わってしまった。

このシミュレーション結果に基づけば、2015年が将来の下降傾向を食い止める真のタイムリミットとなる。あと11年しかないが、あと11年もある、とも言えよう。11年前のことを考えれば、現在の社会・国際情勢は想像もできないほど変化している。今後11年間、人々がこれらの問題に対して危機感を抱き、解決に向けて動き出す可能性は十分にある、というのは楽観し過ぎであろうか。

 

 

閑暇的生活への憧れが引き起こすもの

経済学部経済学科317020096  渡邉 剛

 広辞苑によれば、有閑階級とは「資産があって、生活のための職業を持たず、閑暇を社交や娯楽に費やす階級」のことを言う。私にとって「有閑」という言葉は、それ自体が特別な響きを持っているように感じられる。「一億総中流社会」と呼ばれる日本において、単なる上流階級ではない有閑階級というものに所属するのは、極限られた人々であるからだろう。

 しかし、ヴェブレンの有閑階級の理論によれば、有閑階級とは必ずしも資産がある裕福な人々のことだけを差すわけではない。下層階級、つまり資産が無い人々であっても、時間の非生産的消費を行っていれば、有閑階級に属するというわけである。哲学者のような人々にとっては、日常生活を送るための活動というのは、自らの思考活動にとって無意味なものである。このような理由から、閑暇な生活というものは、人々にとって高貴な存在であった。現代では、文化的な活動の例として音楽や絵画といった芸術作品の鑑賞が挙げられるが、この流れを汲むものであろう。私自身は文化的な活動というものには無縁であるが、そのような活動をすることに対する憧れのようなものはある。

このような一般人の憧れ、より具体的に言えば敬意の念が、有閑階級に対してある種の強迫観念を与えているようだ。有閑階級は、閑暇を他の階級の人々に対して、顕示的に過ごさなくてはならない。例えば、有閑階級は富の取得を行うことは許されない。労働のような努力によって、富を増加させることを目的としていないからである。生産的な仕事はするに値しない、という意識こそ有閑階級が持つべきものであるという。ある意味では、非常に世間の目を気にしなくてはならない階級であると言えるだろう。結果として、代わりの選択肢というのは、乞食か貧乏に限定される。貧しい生活を送っていながらも、労働に就くことは無く、いわゆる二次的な有閑階級として有閑階級に留まり続けるのだという。しかし、この二次的な有閑階級が実在し得るかについては疑問がある。没落した人々は、富を増加させる意思の有無に関わらず、生活のための労働をしなくてはならない。そのため、その時点で有閑階級の定義からはずれてしまうのではないだろうか。また、客観的に見れば、二次的な有閑階級というのは非常に滑稽である。高すぎる自尊心に縛られてしまっているように思う。

一般的な有閑階級の活動として、最も象徴的なのはやはりその莫大な富を活用する消費活動であろう。有閑階級は、この消費活動においても、顕示的に行動しなくてはならない。ヴェブレンによれば、名声を上昇させるためには過剰な支出が必要である、と言う。これは明らかに真であろう。人々の嫉妬を買う可能性が無いわけではないが、階級が違うということを人々が認識してさえすれば、その心配は無い。浪費と消費については、講義でも取り上げられたが、非有閑階級の人々にとっては紛れも無く消費行動であり、むしろ歓迎すべきものである。浪費という言葉を使うこと自体、適当では無いように思う。

 

 

自由設定課題〜「萌え」とは何かについて考察する

経済学部経営学科 17020040 槙塚 絵美

しばらく前から「萌え」という言葉が一般的に使われつつある。その「萌え」とは一体何なのか。「萌え」は造語であるため正確な定義はなされていない。使用者によって様々な解釈が成り立つフレキシブルな言葉といえるだろう。一応goo「新語辞典」によるデイリー新語辞典からの検索結果を引用してみれば、以下のようになる。

【萌え】〜ある人物やものに対して,深い思い込みを抱くようす。その対象は実在するものだけでなく,アニメーションのキャラクターなど空想上のものにもおよぶ。〔アニメ愛好家の一部が,NHK のアニメーション『恐竜惑星』のヒロイン「鷺沢萌」に対して抱く,ロリータ-コンプレックスの感情に始まるといわれるが,その語源にも諸説ある〕とのことだ。(なお語源については他にも、少女漫画『太陽にスマッシュ』の主人公「高津萌」の「萌ちゃん燃え燃え」発言が萌え萌えになっただの、アニメ『美少女戦士セーラームーンS』に登場する「土萌ほたる」にちなんでだの、声優の「長崎萠」からだの、諸説様々に言われている。)私個人の観点からすれば、gooの定義はぬるい。「深い思い込みを抱く様子」、そんなものは「萌え」ではない。「萌え」る瞬間、人は対象に邪悪なトキメキを感じている。それは、まさに欲情である。「萌え」は「欲情」なのだ。説明を加えるなら、直接的に肉体的反応を意味するわけではなくて、ただ妄想中枢に刺激を与えるという意味での欲情、といえるように思う。「萌え」る対象に異性が多いのは妄想しやすいからであり、同性よりは断然異性のほうが神秘的かつセクシュアルな欲望を覚え満たしやすいはずだ。「キャラ萌え」に限らず、「シチュエーション萌え」「アイテム萌え」など色々な「萌え」が存在し、心をかき乱す要素は、様々だ。悶々としてこそ萌えである。

ここで、「萌え」の解体の前に、世界をRとVに分けておこう。Rは Real、現実世界であり、目に映る範囲の本物の世界を示す。Vは Virtual 仮想現実世界であり、インターネット、アニメ、マンガ、テレビのむこうがわなどの虚像のような世界をさす。そして、この大きなV世界とは別に、嗜好の限られた狭く深い個人のV世界をV2世界とする。R世界に実在するものにしろ、V世界で創造されたものにしろ、そのキャラクターなりなんなりを個人世界V´への昇華してしまうのが「萌え」なのではないだろうかと私は思う。オリジナルのキャラクターを原作の中のみで楽しめるのは「萌え」ではなく、自分の中のV´世界にそのキャラクターをダウンロードし、カスタマイズして弄ぶことこそが「萌え」の本質ではないだろうか。ここはいわば妄想王国である。人は、V2世界で欲情し「萌え」ているのである。

 さて、私の考えるところの「萌え」とは以上のような思考・行動を指しているのだが、ここからはなぜ「萌え」がここまで浸透しているのかについて展開したい。浸透しているとは言っても、所詮はオタク文化への浸透である。V世界をデフォルトとしているオタッキーな連中にとって「萌え」とは、なんだかよくわからないけれど自分たちの欲望を的確に表現した言葉として受け入れられている。私は、90年代のパソコンの普及こそが「萌え」の発展に大きく関わっていると考えている。インターネットの普及、これは個人のV2世界とのインタラクティブ化(それまでのアニメ、マンガ、ゲームなどのV世界は、個人に対して一方的であった)とV世界のデフォルト化(R世界ではなくV世界に居心地のよさを感じるようになった)をもたらした。まず、インターネットにより自分の嗜好を理解できる同士を見つけることが容易になり、V´世界はリアルタイムでつながりあって共有化が起こったのだ。そして、V世界はさらに膨張し、オタクがオタクとして世の中に蔓延りはじめる。人はV2の世界でしか欲情することができなかったが、互いに極まった想いを仲間と交流させることで、ここで欲情のレベルは個人から解放されたと考えられる。深まる一方であったV2世界での欲望にV世界での調整が図られ、抑制されるようになったのだ。こうして、想いが共有されることで、欲情は開放され軽度化したと私は考える。軽度の欲情、ちょっとヨコシマなトキメキ。その的確な表現として「萌え」が言葉としてラベルづけされたのではないだろうか。個人が昔から抱いていた肉体的・性的といえる「欲情」と、「萌え」の違いはここにある。V2の共有化によって整った欲情が「萌え」の誕生だと私は思う。「萌え」は確かに欲情ではあるが、一種のネタとして楽しむ、そのレベルにおいて感情を揺さぶられる程度のものなのだと考える。

「萌え」は、オタク文化による新しい流れを象徴する言葉だろう。これからも第二、第三の造語が誕生し、この文化を盛り上げてくれることを期待したい。

 

 

経済思想レポート

経済学科3年  17020132 藤瀬 貴行

共産主義には第一段階から第三段階といった三つの段階が存在することを今回の講義においては学んだ。共産主義の第一段階では人間が欲望を押さえつけるような何かによって縛られることなく、己の持つ欲望のままに行動することを肯定する。たとえば現在の結婚という制度を廃止することによって一人の相手のみとの交際を棄却することである。もしも結婚という制度がなくなれば、その制度に縛られることがないので、誰とでも何人とでも交際を行ったとしてもそれは浮気にはならない、ということになる。魅力的な人は何人とでも恋愛を楽しむことができる一方で、そうでない人はやはりなかなか恋愛を行うのが難しいように思える。しかしながら、結婚の制度が存在していても結婚できない人はやはりいるし、いま現在において、というか元々結婚がそれほど意味を成しているとは思えない。本当にただの制度として、それ以上でもなく、それ以下でもなくただ残っているとしか言いようがない。単に夫婦を夫婦として結びつけ、同時にそこに縛り付けるものだといえる。

第二段階としての共産主義は過渡期である。そしてその過渡期を経て、第三段階としての共産主義は皆やりたい仕事ができるということである。そして自分のやりたい仕事でそれなりの賃金を得ることができる。皆が自分の就きたい仕事に就くことが可能になれば、そこには資本主義におけるただの金儲けとしての労働が持つ競争・争いは存在しない。そして、人の人としての能力を最大限に発揮することを目的とした共産主義における労働で「実践感覚」を手に入れることができる。その「実践感覚」が労働を通して鍛えられることで文化資本を充実させることができるのだ。文化資本を充実させることによって豊かな人間性は生まれ、感受性を発達させることが可能になるのである。

しかしながら、いくら自分のやりたい仕事につくことができたとしても、その仕事に取り組もうというインセンティブに欠けるように思える。資本主義であれば、仕事に対して真剣に取り組み、結果を残すことができればその分だけの報酬を得ることができる。すなわち、報酬という目に見える形で自分の業績を捉えることができるのである。しかし、やはり共産主義では確かにやりたい仕事に就いて、収入を得ることも、自分の能力をはかることも容易にできるが、その仕事の自分の業績、努力といったものが目に見えない分だけやる気に欠けてしまうし、自分の成長を感じることも難しくなってしまうように思える。それ故に完全な共産主義は望ましいものであるとは言い難い。我々は完全な共産主義を追求するのではなく、できるだけその理想に近づいた形に社会を形成するのが良いように思える。誰しもが自分の就きたい仕事に就くことができ、さらに仕事に対してのインセンティブを損なうことがなければそれは社会にとって最適であるといえるからだ。

 

 

「分析的マルクス主義の思想:平等主義」について

経済学科3年 田村葉子学生番号 17020122

まず、配分をめぐる問いについて、私は遺産は盲目の子には生活の上でのハンデを考慮して他の子どもよりも多く遺産が配分されるべきで、残りの三人の子供には均等に配分されるべきだと思う。三人の効用レベルは異なっており、慎ましいニーズを持った子は高価な嗜好をもった遊び好きな子や高価な材料を必要とする子と比べると遺産を必要としていないかもしれない。それを考えると遺産は皆の効用を満たすようにそれぞれ違った金額で配分されることが望ましいのだといえるかもしれない。あるいは国立大学のように、国家が社会への貢献度が高いと考えられる彫刻家や詩人に高い財産を残すべきだということもできるかもしれない。しかし、効用を実際に数値化することは不可能であるため、どう配分すればすべての子供の効用を満たすことができるかを知ることは難しい。社会への貢献度で配分をするのはある意味経済的と言えそうだが、実際詩人や彫刻家が将来社会にどれほど貢献するかを現時点で決めることは不確実さを伴い、また高価な嗜好を持った遊び好きの子供ももしかすると将来社会への貢献度の高い職に就くかもしれない。国家は国家を豊かにするための資源と国民をみなしているため貢献度を重視した税金の配分を追及することに異論はない。しかし、家庭は国家に帰属するものではあるが、実際国の経済的発展を常に考えながら行動しているとは必ずしも言えない。遺産を貢献度によって配分することもひとつの選択肢としては考えられるが、遺産は身体的ハンデを背負ったもの以外を平等とみなして配分するのが妥当であると私は考える。また教育格差是正措置については環境によって同程度の努力でも教育達成レベルが異なることはありうると思うが、それを何らかの形で数値化して大学入学の段階で枠を作るのは良くないと思う。努力度というのははかることが難しいし、地域での調査もどれだけ努力したかというのは主観が必ず入ると思うので努力度を調査することで入学の枠を決めるのではなくてその過程でより平等に近づくような環境を整えることが一番必要なことだと思う。奨学金制度のように勉強はしたいがお金がなくて塾にいけないような子に塾に行くお金を補助したり、環境の整っていない場に勉強ができるような施設や図書館を設立してあげるなどの補助を施してあげる方が、入学基準を明確に保てると思うし、達成度の違いや努力度の正確な測定に関わる混乱を起こさないと思う。誰もが平等なスタート地点に立つことは非常に難しいことだと思うが、苦学をしている人の達成地点を下げるのではなく、苦学自体をなくすことを考えていくのが良いと私は思います。

 

 

マルクス『ゴータ綱領批判』

経済学科3年 田村 葉子 学籍番号 17020122

 今回の授業で触れたマルクスの主張のうち、いかなる労働であっても一時間の労働はすべて同質とみなされる勤勉重視の形式的平等を不平等とし、労働能力を重視した実質的不平等を平等だと主張したマルクスの考え方には賛同できた。形式的平等を追及する社会から単一労働が生まれ、それは労働者の労働に対するやりがいを奪うことになる。資本主義での労働者の勤勉さの追求は労働力の搾取につながる。共産社会というものがどのようなものかまだはっきりとイメージはできないが管理社会である以上管理者が存在し、これがある限り労働力の搾取を完全に回避できるとは言いがたいのではないかと思う。ゆえに実質的不平等が必要であるという主張には同意できるが、共産主義者としてのマルクスの立場からこの能力の高低をいかに評価し、見極めるのかは疑問である。市場の存在を否定する立場においては能力の高い者に高い報酬を出すことは、市場の考え方だと思うし、生産力の向上に貢献できる能力が高いとするのも市場と結びつく考え方ではないかと思う。

 今回の授業では資本家・地主などが極端な資本主義的考えで労働を商品化し、需給法則のもと何時間であろうと労働者から労働力を搾り取っていた社会があって、そのような労働体制を打破すべく共産主義的な考え方が生まれたのだということがわかった。労働力の搾取に対抗するには需給法則の代わりにコントロール(制御)の経済学を適用し、労働をコントロールすることで一日十時間労働を主張し実現した。一日の労働時間の規定は今日当然の権利として憲法に掲げられているため、私はこれが共産主義から生まれたものだと知らなかった。そのほかにも民主主義を確立する規定が共産主義から生まれていることを初めて知った表現の自由など今日自由権として掲げられているものや、選挙や教育に関する規定、政教分離を規定するものもエルフェルト綱領には書かれている。これまで共産主義というのは私の印象の中では平等を説いているようで社会の管理者だけが得をするような社会だった。ソ連や中国などの共産主義国として失敗してきた国や、北朝鮮のように情報が国民に正しく伝わらないような統制の国を共産主義の印象として挙げて考えていたがこれらは共産主義の極端なケースであったり統治の仕方の問題で崩壊したのであって、資本主義にも極端なケースがあったのだということを考えた。歴史的に見ても資本主義の支配的構造の中で共産主義が民主主義に貢献していたのであり、共産主義に賛成できるところが見えてきたように思える。自分は民主主義が資本主義に内在しているのだという誤解をしていたように思える。長い歴史の中で現在のような資本主義ははじめからある資本主義なのではなく変遷を遂げた社会なのであり、そのプロセスに共産主義の考えがあるのだと思う。思想家は革命的な理念を持っており、実際に実行できないところはあるというところを加味すると共産主義にも少し肯定できるところがあると思う。

 

 

経済学部経営学科3年 17020152 小笠原久宜

国立大学改革論について(4月9日)

今回の講義では国立大学改革論ということで、先生が掲げる大学改革案への具体案について議論を行ったが、その具体案に対して私が感じたことをこれから述べていきたい。

@の「選抜システムの段階化」の話しで、入学資格と三年次進級資格を分離し高校5年生のような形態を作ることを提案していた。その必要性として「大学生にもっと勉強をしてもらうため」となっていたが、学生の勉強に対する姿勢や知識の量を改革していくことを主目的とするならば、「高校5年生形態」をつくるよりも「大学内の進級制度、及び単位取得制度の難易度の上昇」を行えばよいのではないだろうか、と私は思った。確かに、現在の大学生(自分も含めて)は勉強意欲というものが少ないかもしれない(勿論努力している人もいることは事実である)が、大学生1、2年生の期間が高校の延長のような扱いになって、そこが多機能教育期間になったとしても、果たしてそれが学生の勉強にプラスの影響を及ぼし、そこで将来を見定めることが十分にできるのかが疑問である。現在詰め込み教育を行わないため、少・中学校の勉強量が我々の世代よりも少なくなっているにも関わらず、大学のセンター試験や二次試験の難度は変わらず、結果として高校3年間の負担が増えてしまっている。そのような状況の下で、一例ではあったがセンター試験550点で大学入学試験合格ということは、必然的に全体的な高校3年生の学習レベルを下げてしまうのではないだろうかと思う。そこでまた疑問になったのが、大学1、2年生終了時における進級資格試験がどの程度の難度であるのかということである。この点をもっと詳しく知りたかった。仮に現在の2次試験のレベルとあまり変わらないような難度であれば、同じ勉強量が3年間に詰まっているか、5年間に詰まっているかの違いで、結果として勉強量が浅い、つまり一日の平均勉強時間に換算して例えると、その勉強時間を減らす結果になってしまうのではないだろうかと思う。個人的意見として、現在でも勉強する人は勉強をし、しない人はしないのであり、そこは自己責任の問題であるからそれに合わせて大学を改革するべきなのかどうかは賛同しかねる問題である。

では、学生が勉強するにはどうすれば良いのかを自分なりに考えてみた。講義中にも出ていた話だが、「学生の幼児化」が大きく起因しているのではないかと思う。先生は、そのため社会にでる時期を遅らすという考え方を示していたが、私は幼児を防ぎ、若年層の精神的成長を促す方向に改革を進めてはどうかと思う。これは日本の教育体制や思想から改革していかなければならないものだとは思うが、大学の役割のみを考えると、やはり「大学内の進級制度、及び単位取得制度の難易度の上昇」が必要なのではないか。一種の甘えをなくし、卒業するのが大変な場所にするのである。さらに、講義に市場原理を導入することはできないのであろうかと思う。確かに研究を進めることは重要であるが、「大学の教員が如何にして学生に教えるか」というのも学生の勉強意欲に強く影響を与えるものなので、「次世代を育て、その結果が評価される」ということが強調されても良いのではないかと思う(大学教員システムに精通しているわけではないので、的をえていないかも知れないが)。将来について悩む時間が増えるのは良いことだが、社会に出て経験してみないとやはり現場を本当に知ることはできないと思うので、寧ろ時期を遅らせないほうが良いのではないかと思う。人生80年代と言われ、我々の余命も長くなったのであるから、「社会に出た後の迷い道」も多くても良いのではないだろうか。

 

 

経済学部経営学科3年 17020152 小笠原久宜

学問とは何か:ウェーバー『職業としての学問』(4月13日)

今回の講義は「学問とは何か」ということであったが、「学問」というものを考える非常に良い切っ掛けとなったのではないだろうかと思う。講義終了後、学問について考えれば考える程よく分からなくなってきてしまったため、辞書的な意味を超えた話だとは思うが、広辞苑を引いてみた。広辞苑第五版によると、学問とは「@勉学すること。武芸などに対して、学芸を修めること。また、そうして得られた知識。A一定の理論に基づいて体系化された知識と方法。哲学・史学・文学・社会科学・自然科学などの総称」とある。やはりこのような一般的説明しか書いていなかった。これが自分の求めていた答えではなかったため、自分なりの「学問というものの位置付け」を考えてみようと思った。

 それを考えている内に一つだけ思ったことがある。それは、自分は少なくとも小学校時代から高校を卒業するまでの間に「学問」というものをしたことが無いのではないかということである。小・中・高の期間では、大学に入るための知識の詰め込みを行っていたに過ぎない。それは決められた科目数、内容を自分のできる範囲で習得しただけで、それ以上でもそれ以下でもないであろう。国によって決められた以外にも知的探究心を持って何かを学ぼうとする姿勢が殆ど無かったため、学問を知らずに生きていたのではないかと思う。

では、大学に入学してからの自分はどうであっただろうか。約2年間大学生活を送ってきたわけだが、大学内での授業に関しては「テストを通過するためだけの勉強」しかしていなかったと思う。だが、大学に入り自分の時間が増えたことで、様々な物事を自ら探求する姿勢が芽生えてきたと思う。特に、本当に最近のことであるが、「ジャンルにこだわることなく色々なことを知りたい」という意識が強くなってきた。これは20歳を超えて精神的に成長してきて現われたものなのか、社会人になる前に無意識に出てきたものなのか、あるいはもっと別の要因があるのかは分からないが、とにかく今の自分の中には「自分の知識を広め、自己の世界を広めたい」という意識が強い。私はこれが「学問」への始まりなのではないだろうかと思う。他人から強要されることなく、自らが知的探究心を持ち、自らが自分を向上させるためにより高いものを目指していくこと、これが「学問」なのではないだろうか。

七つに分類された学問のタイプを自分に当てはめて考えると、自分はアクセサリー派か人格主義派だと思う。あくまでも学問というものは自分のためであり、自己を向上させてくれるもの。そして生活には重要なものではあるが、中心にはならないもの。これが自分の現在の「学問に対する価値観」であると思う。講義の終わり頃に、「ある程度の学問を修めた者は社会に貢献するべきか」というような話が出ていたが、私は学問=将来の社会への貢献にはならないと思う。確かに社会貢献は大切なことで、そのために学問を行う人もいるかもしれないが、私の価値観では、学問は他人への貢献のために行うものではなく、あくまでも自己向上という意味での自分への貢献のために行うのではないだろうかと思う。

 

 

ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

6月1日 17020142 経済学科3年 森田 雄作

資本主義の精神の担い手は、向上しようと努力しつつある産業的中産者身分である。彼らは規律化を受け入れ、政治的・社会的な地位の獲得からはじき出された結果、金銭的成功へと向かい、子供のころの禁欲という親のしつけに対する反動として資本化精神が生まれた。しかしここで疑問に思うのは、プロテスタンティズムの倫理による生活の合理化は、あらゆる欲望を否定し、天職という考え方を肯定するものであると授業の中で説明があったが、子供の頃の禁欲の反動として資本化精神が生まれているのに、資本化精神が生まれた後でも禁欲を要求している点である。天職という考え方に基づけば、天職とはあたかも労働が絶対的な自己目的であるかのように励むという心情であり、労働は神の定めた生活の自己目的であり、時間を浪費することは、その失われた時間の分だけ、神の栄光ために役立つ労働の機会が奪い取られたこととなるという考え方であるので、あらゆる欲望を否定すべきだということは理解できるが、子供の頃の禁欲の反動として資本家が生まれるというからには禁欲を拒んでいるはずであるのに、そうであるにもかかわらず禁欲を受け入れるのは何故であろうか。伝統主義という、できるだけ多く労働すれば一日にどれだけの報酬が得られるか、ではなくて、これまでと同じ報酬を得て伝統的な必要を充たすためには、どれだけの労働をしなければならないかという発想から抜け出し、労働が絶対的な自己目的であるかのように励む心情、つまり天職という考えを持つことが必要となったのは何故なのだろうか。この問いに関しウェーバーは、歴史的意義のあることをすべきであり、心理的機動力という観点から辿ろうとする。しかしこの考え方は自分にはよくわからなかったので、自分なりの考察を述べると、中産者階級は政治的・社会的地位の獲得から排除された結果、金銭的成功を求めるようになったのであるから、当然にして伝統主義のような生きるための最低限度の賃金の獲得では満足するはずはなく、できるだけ多く稼ぎたいと思うはずである。そのためには冒険的に商業を行ったり、投資するのではリスクが大きく、金銭的成功から離れてしまう可能性がある。そのため自分を天職により規律し、貯蓄もレジャーもしないで投資していったのではないかと考える。

行為により自己確信を獲得し、厳しい労働に耐えることで不安を解消し、日常生活を合理化する者が経済人であり、まわりが堕落する中で、厳しい労働をする人が現われることにより資本主義は発達するという話があった。これは学生にも言えることであると思われる。まわりが堕落する中で、単位を確実に取得できる、必ず就職できるという自己確信を得たいために一生懸命勉強するといった人が現われる。そういった人がもっと現われれば、授業は活性化するだろうし、経済社会も発達するだろう。しかし、ここで考えたいのは堕落した人たちがどうなるかである。エートスがなくなった場合どうなるのか。現在の競争社会の中では、生活の合理化を迫られれば、受験時と同じように、精神的救済を求めるだろう。精神的救済とは、行為により自己確信を獲得し、厳しい労働に耐えることで不安を解消することであるから、結局は堕落した人も社会の競争にさらされれば厳しい労働をしなければならないということである。だから、せめて大学時代は遊ぼうと考える人と、いつかは頑張らなければいけないのだから、今から頑張っておこうと考える人がいるだろう。このどちらが良いのかは今の自分にはわからないが、自分は後者の考え方であるので、まわりに振り回されず、エートスを持ち続けて生活したいと思っている。

 

 

マックス・ウェーバー『宗教社会学論選』 5月28日

17020142 経済学科3年 森田雄作

恵まれた社会層は、救いへの要求をわずかにしかもっていなく、恵まれた層の自尊心を育てるものは、存在であるのに対し、恵まれない社会層は、自分たちに委ねられた特別な「使命」への信仰によって自尊心をもっとも容易に養うことができるという。「人は生まれながらに素晴らしい」という言葉もあれば、「人は生まれながらに何らかの使命を持っている」という言葉もある。前者は存在自体が素晴らしいという考え方であり、後者は使命を持っていることが素晴らしいという考え方であるように思われる。これら2つの考え方のどちらがよいのか。存在自体が素晴らしいという考え方は、すべての人間の存在を肯定するようであり、美しく聞こえるかもしれないが、恵まれない層はこのようには考えず、自分は何のために生まれてきたのかを考えるだろう。使命を持っているほうが素晴らしいということにより日々の苦難に耐えるであろうが、何不自由のない暮らしができる恵まれた層には与えられた使命がないように感じ、この考え方は受け入れられないだろう。個人的には生まれながらに使命を持っているとする考え方のほうが共感を覚える。存在自体が素晴らしいとする考え方は、恵まれた層が何の苦難も不自由もなく生活することを肯定するための言い訳のように感じられるからである。このように考えると、人間が生きる意味または生まれてきた意味というのは何らかの使命を持っているからだと考えられる。自分はこの考え方自体に反対するつもりはない。人間はただ単に生まれ、存在自体が素晴らしいと考えていると、逆に何のために生まれてきたのかがわからなくなる。自分は何らかのことを成すために生まれ、それを探しながら努力して生きていくことで(経済的にではなく)豊かな生活ができると思うからである。歴史を変えてきたのはいつも何らかの使命感に燃えた人達である。自分が歴史を変えようなどとは思わないが、より豊かに、幸福に生きていくためにはこのような考え方を持っているほうがよいと思う。

ヨーロッパの資本主義は禁欲・達人倫理・物事に即した態度・経済的合理性により発展してきたが、それは逆に鉄の檻と化してしまったという話があった。確かに禁欲は富を拒否するのに禁欲が生み出すパラドクス、そして富が生まれればそれを使いたくなるという人間の欲望の制御の困難さなどを考えれば納得いく話である。人々はそうした中で救いを恋愛や芸術に求めるようになったという。芸術は、宗教の代わりに癒しや感動を与える代替効果がある。確かに優れた絵や音楽、文学などは人々の心を癒し、感動を与えるという意味で救いを与える。恋愛とはつまり非日常的な営みであり、人間は困難なことが生じたときには非日常的な物事に逃避するというのは、今日においても「現実逃避」という言葉があるように至極当然のことだと思われる。現実から逃げるというのが救いなのかどうかはわからないが、人間が困難に陥った場合にはそういったものを求める、ということは理解できる。しかし、授業の中の話では、科学が宗教の代わりにどのような代替的効果を及ぼすのかが今一掴めなかった。